これは、MIAの語り部であり、実践者である今井清二郎氏が、富岡の青年会議所のメンバーにMIAについての熱き思いをメールでつづったメッセージです。

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 MIA通信 2    2      

 

 

第2回MIA通信です。
早速5人のメンバーからメールをいただき、有難うございました。せっかくメールをいただけるなら、質問や問題提起などがあると答えやすいので、この次にはぜひ意見なども含めてメールをください。
今日は、MIAの全てを発想したわれらがムーチョ小野正孝先輩のことをもう少しお話します。

小野さんについて
小野先輩は、長野市の川中島に生まれました。もともと山梨県からおじいさんが長野市に出てきて、材木屋を始めたそうです。それで「甲州屋」という屋号になったのです。秋田などから大量に材木を仕入れ、商売も繁栄しました。川中島駅は、その材木を下ろすために駅を新設したと言いますから凄かったのだと思います。


私も一度川中島の自宅を訪ねたことがあります。大きな屋敷でした。しかし、小野さんが青年会議所に入ったころ、昭和33年、小野さんが26歳のころのことですが、社員は10人くらいのどこにでもある材木屋だったと言います。それから建材屋になり、サッシや軽天を扱い、ALC版で独自の住宅まで開発するようになりました。私たちが長野に行くようになったころには、長野県では二番目の大手建材店になっていたのです。青年会議所の運動に没頭しながら、会社を大きく伸ばしていったのです。男の兄弟が三人いて小野さんは三男で会社では常務でした。 
しかし、新しい仕事の開発や社員教育、経営方針などは小野さんの力が大きく発展の礎になっていたと言います。MIA研究会で私の信頼する友人でもある長野JCの久保田輝男氏の言によれば、甲州屋は「ほとんど小野さんが中心だった」そうです。

青年会議所でも、最初はスピーチも満足に出来ず、まったく普通の会員だったと本人は言っていました。ブロックに出ても、地区に行っても、日本JCに行っても、凄い人ばかりで気後れしていたと言っています。

小野さんの特技
しかし、小野さんはひとつのあまり誰でも真似の出来ない特技を持っていました。小野さんの生まれついての興味と言っていいかもしれません。
「なぜこの先輩は、こんなすばらしいスピーチをするのか?」「どんな勉強をしているのか?」という興味です。
そこで尋ねます。どんな勉強をしてきたのですか? どんな本を読んでいるのですか? ぜひ教えてください・・・・・と。
教えてもらった本や雑誌を読んでみると、次に先輩のスピーチを聞いた時、その中に自分もすでに読んだ言葉がたくさん出てくる。
「なぁんだ!先輩の情報源はこの本だったのか。これなら俺にでも出来る。」と言ってひとつ前進する。こんなことの繰り返しだったのです。
先輩が持っているスケジュール管理の手帳。手提げかばん。愛読書。行動様式。みんな自分のものにしていきました。

小野さんのスタートはあなた方と同じ、普通のJC新入会員でした。
しかし、それからのJCライフはめざましく、毎年毎年新しい挑戦を行い、華やかな階段を駆け上がっていきました。
31歳日本JCプログラムマネージャー(この年、LIAプログラムをアメリカJCから導入)、33歳JCI副会頭、34歳長野JC理事長、35歳日本JC指導力開発室長(この年SMIを知る)、36歳日本JC専務理事、37歳日本JC副会頭、38歳日本JC監事、39歳日本JC会頭(3万人対話集会)、40歳直前会頭(シニア・アカデミー専任講師)、41歳MIA研究会召集、そして、42歳にして突如として早世してしまったのです。

 
小野さんのお宅 
小野さんの川中島の自宅は、敷地は広大で、建物も大きかったのですが、材木屋の倉庫を改造した質素なものでした。
奥さんと子供が三人、男の子二人と、その上の女の子は脳性まひの知的障害者でした。小野さんがいつも人間に深い愛情と思いやりを持つようになったのは、障害児を持ったからだと言ったことがあります。頭が異常に大きく、顔のゆがんだ女の子に奥様がスプーンでご飯を食べさせていました。
私は、障害児と身近に接したのは初めてでした。でもそのお陰でそれ以降、障害者に出会っても何の偏見も持たなくなりました。
小野さんと奥様がいたわっていたその姿が今でも目に焼きついているからです。

夕食は小野家伝来の郷土料理『釜あげ』を食べさせて貰いました。釜なべで煮たうどんを味噌と大量の大根おろしを自分で調合して食べる小野家独特の食べ方なのだそうです。うまい!忘れられない味でした。
泊めていただいた翌日、小野さんは製材職工の社員を二人乗せて本社に出勤しました。もちろん私も同乗でしたが、小野さんは長野にいる限り毎日送り迎えをしていたのだそうです。そして、必ず全社員の朝礼をしていました。
会頭の一年は、4日しか長野に帰れなかったと言っていましたが、それでも帰れば必ず社員を車に乗せていたそうです。

どんなのJCで忙しくとも、使える時間は全て会社のために使うと言う姿勢、これさえあれば社員はわかってくれるのです。家族も同じだと思います。


エピソード
小野さんと家族のエピソードをひとつ。
小野さんが結婚したて、毎日JCで遅くなる。しかも飲んで帰る。奥さんが『JCと私とどっちをとるの?』と迫ったとき、つい酔っていたので、『俺はJCだ。』と言ってしまったそうです。これには参った、散々やられた、本音を言っちゃあ、おしまいだね、と自戒していましたが。
その後日談。

小野さんはJCの歴史で初めての会頭選挙で選ばれたのですが、会頭に立候補することを決意して一番先に奥さんに相談したそうです。
『おまえはどう思う』と言う問いかけに答えた奥さんの言葉は小野さんを感激させました。
『皆さんが薦めてくれるならいいじゃあありませんか。あなたが大きくならなければ私は大きくなれません。私が大きくならなければ子供たちも大きくなれません・・・・』
最初のエピソードと後のエピソードの間にどんなことが起こっていたのでしょうか。
多分小野さんが大きく成長し、家族を大切にしていたのだと思います。使える時間は少なくとも、日本全国どこにいても、手紙や電話を家族に出していました。そのことを奥様もよく理解するようになっていたのだと思います。 

さて、今日の通信はこの位にしておきます。小野さんのことを話し始めるときりがないのですが、いづれまた話させていただきます。
青年とは、未熟であることを自覚している人のことを言います。俺はそうは思っていない、そんな自覚はないもの、と言う人もいると思いますが、
では、角度を変えて聞きます。
あなたは、現状に不満はありませんか?自分の理想を描いたことはありませんか? あるとするなら、まだまだ未完成であるからだと思います。
MIAをもっと勉強していきましょう。良き機会は、そうめったに巡ってくるものではありません。これからもどうぞよろしく。
                                            
                          2001.3.28     今 井 清 二 郎
  
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